日本人が感じるハンガリーに関する疑問に、日本語を学ぶハンガリー人が答えます。(これは毎年9月~12月に大学1~2年生用に開設される「日本語の正しさ1」という授業で学生が書いた作文を集めたものです。)
らくがきが気になるかどうかは場合によると思います。たとえばきれいな建物のかべの場合、どんなでもらくがきも気になります。ハンガリーでらくがきをすることが合法な場所があります。古くてボロボロの壁にかかれたらくがきはいいことだと思います。インターネットによるとらくがきは美術です。私もすごいらくがきを見たことがありますから、そうかもしれないと思います。アメリカではたくさん若い者がらくがきで自分のスタイルを見せようとしていますが、それは大切なことだと思います。もし違法な場所でなければ、らくがきは本当に美術になることができると思います。(Turcsány Réka)
たくさんの若者はグラフィティが美術だと思っています。でも大人や年配の人の意見はちょっと違います。大人の人たちは伝統的な美術と比べると、グラフィティは狂っているだけだと思っています。でも私の意見はこの両者とも違います。例えばブダペストを歩くと、多くの場所で色々なグラフィティが見えます。建物の壁や橋の下にあるグラフィティはぜんぜん綺麗じゃないと思います。フーリガンという人々が自分の名前を書いてメセ-ジを送るようなグラフィティがあります。これは器物損壊にちがいないと思います。でも真面目なグラフィティはとても綺麗だと思います。時々グラフィティにより古い建物が綺麗にすることができると思います。
落書きの意味は最近ちょっと変わりました。どうしてそんな絵を描きますか。本当の理由は人々に、政府に、社会的な問題を教えるためです。分かりやすくするために壁の落書きのとなりに短いメッセージお書きます。壁に書いたメッセージは多くの人に訴えかけます。でも現代ではいろいろなテーマについての落書きがあります。でもこれはタグ(TAG)です。落書きとタグ(TAG)は同じではないです。タグは変な字で書いた短い文章です。たとえば「私はマリかさんがだいすき」はタグです。このメッセージはしゃかいと関係がありません。ざんねんながらバスの駅やバスの中にたくさんのタグがあります。タグや落書きのペイントを消すのは難しいです。実は、社会についての落書きはきれいでべんりだと思います。でもバスや道の壁にかかれたタグがあまり好きではありません。私はタグを見るとイライラします。
落書きと言うと、大勢の人がそれは何か悪いことだと思っています。私は落書きに対する意見は二つのグループに分けられると思います。一つ目は、多数の人の意見と同じように、落書きは環境汚染だというグループです。道を歩いているときに、壁やアスファルト、像にある落書きを見て喜ぶ人はいないでしょう。それを見ると、それをやった人はやっぱ悪いやつじゃないかという気持ちが出てきます。これらの落書きはだいたい醜くて、洗い落とすこともできません。別のグループの人が自分のグループの権威を強めるため、普通真夜中にグループのシンボルをあっちこっち描きます。しかし、落書きは必ず悪いかというと、そうでもありません。二番目のグループは、落書きは実は美術だというグループです。道を歩いていると、時々壁にすごい、素晴らしい絵を見ることがあります。それはゲームキャラクターのイメージのようなものを表す絵だったりします。「それはすごいことだ」という気持ちもします。落書きは現代の音楽、特にヒップホップと同じ位置にあると言えます。それを本当の落書きの画家が描きます。そのため落書きのフェスティバルもあります。フェスティバルでは公園や広場に真っ白い壁が置かれ、参加者が壁に落書きをしてて、観客がその絵が見ます。このように落書きは絶対に悪いわけじゃありません。(ケーリ・シャンドル)
20世紀では、その前知られなかった新しいものが現れました。その中で最も不愉快なものの一つはごみです。私の意見でごみは人間が取り除かないとちゃんと消えない醜い/臭い/有害な物という意味です。自然にはごみが全然存在しません。生きた自然は世界で一番清くて便利なシステムですから。ごみを作る生物は、遅かれ早かれ、自分が作ったごみに沈むということです。人間もそのようです。私たちは町に住めば、ごみを吸うし、デパートで食べ物を買えば、ごみを食べます。そしてテレビをつければ、頭にごみが入ってきます。そういうことです。私は落書きもごみの要素があると思います。さまざまな人はそれが芸術だと言っていますが、芸術はけばけばしくて醜いはずがありません。さらに、きれいな建物が落書きに台無しされるのはいやです。それで私はできるだけ、気にしないようにします。率直に言うと、落書きを描く人をよく思いません。どこに走り書きをするか彼等には関係ありません。彼らにとってすべてはただの表面です。では落書きをする者の気持ちが全然分かりませんか?気に入った落書きもありませんか?そんなことはありません。22番のバスの路線に沿って長年いろんなところに妙な生き物が現れます。例えば下のような絵です。建物の壁や停留所やバスの中に描いてあります。ほかの通りで見つかる事はありません。生き物の名はあいにく分かりません。描く者はきっと地元の人ですが、誰だか分かりません。多分たった一人の者じゃないと思います。この生き物を祭る秘密の宗派があるかもしれません。つまりこの生き物は彼らにとって一種の神のようなものであるかも知れません。謎の話です。
私は落書きはあまり良くないことだと思います。確かにきれいな落書きもありますが、90パーセントはあまりきれいではありません。それに問題はきれいさのことだけじゃありません。落書きの問題はやっぱり場所です。落書きがある場所は他の人のお宅や公の建物です。たとえば、美術館へ行ったとき、ピカソやゴッホなどの有名な絵を見れば「きれいじゃないか」と言う人が多いと思います。しかし、同じ人が自宅の壁のその絵を見ると「きれいじゃないよ」と言うはずです。なぜなら芸術でも何でも、他の人の家の壁を勝手に変えるべきではないからです。好き嫌いは人によって違いますので、みんなが憧れる落書きが作れるわけがないです。しかし、落書きは公園や駅などの所でよく見られますから、落書きを描く人はやっぱりみんなに自分の好みを押し付けます。こんなことは赤の他人を無視して、自分の大好きな映画を見させることと同じことでしょう。それにしても、落書きは何となく悪いイメージがします。落書きと繋がっている若者はグループで集まって、お互いに対立することが多いです。犯罪も乱暴な行動もあるはずです。だから落書きは犯罪じゃありませんが、犯罪とかと繋がっている可能性があります。危険の元になるかもしれません。こんなに沢山問題がありますから、私は落書きはあまり好きではありません。
母によるとグラフィティはびじつじゃありません。でもきれいなグラフィティがあると思います。絵のみたいもあります。電車のかべや建物のかべにはきれいなのがあります。ブダペストの中でいろいろなものがあります。もちろんみにくいグラフィティもあるし、へたなえかきもいます。でもハンガリーに。あまりよく知らないのですが 大会もあります。このたいかいにごうほうのかべにグラフィティがかけます。
ハンガリーに落書きがたくさんあります。しかし、落書きは芸術ですか。大勢はそうとおもいますけど、かえって、損壊でしょう。ハンガリーの失礼な若者はドイツの若い人のように落書きをたくさんかきます。この事について、不安な事は落書きの消すのが本当に高価なことです。幸いにも町の中心には落書きがまだ少ししかありません。しかしながら、郊外はそうではありません。郊外では落書がにたくさん
作れます。郊外の道に監視カメラがないから、暴漢は落書きを自由に書けます。この問題の解決は人々だけに依存しています。落書きが格好悪いですから、私は本当に困っています。暴漢はちょっと少なかっくなったら、たぶん落書きも少なくなります。
私は、絵を書くことがだいすきですから、落書きも気に入ります。そしてグラフィティを書きます。でも私は、あまりじょずじゃないです。難しい落書きは、とってもきれいだと思います。でもたくさんわるい人は、古い建物に書きます。これは、不法だと思います。これからブダペストにたくさん所にフリーワンドがありますから、建物の落書きはもっと少なくなると思います。フリーワンドは、むりょうで合法です。たくさん人は、フリーワンドを使います。このごろいくつか会社も落書きでちゅうもくをあびています。それがいいビジネスだと思います。
ハンガリーに落書きがたくさんあります。しかし、落書きは芸術でしょうか。大勢の人はそうと思っていますけど、これは損壊でしょう。ハンガリーの失礼な若者はドイツの若い人のように落書きをたくさんかきます。落書きを消すのは本当にお金がかかります。幸いにも町の中心には落書きがまだあまりありません。しかし郊外ははそうでわありません。落書きがたくさんあります。郊外の道に監視カメラがないから、暴漢は落書きを自由にかけます。この問題を解決できるのは人間だけです。落書きが格好悪いですから、私は好きではありません。もし暴漢がちょっと少なくなったら、たぶん落書きも少なくなります。
高校生の時、クラスメートはよく落書きをしていました。クラスでつくえやいすや壁に落書きしていて教職員に怒られていました。その落書きはきれいじゃなかったでしたがノートに書いた落書きのスケッチはとても美しいだったと思います。時々道や壁の落書きはきれいですけど、公共物に書いてはいけない思います。ヴィーンに行った時驚愕しました。町はとてもきれいで、落書きがぜんぜんありませんでしたから。
PR